人はパンだけで生きるのではない

improving the quality of life

M-1 2021決勝 感想

今年のM-1もすごくいい大会で大変愉しませてもらいました。

以下、イチ視聴者の無責任で勝手な感想・備忘録です。悪しからず。今年は予選チケット当たらなかったこともあって、予選はほぼ見てません。

 

敗者復活戦

キュウ

 去年のM-1準決あたりから好きになってきたキュウ。今年はトップバッターを引いてしまった。2021キュウ、2020金属、2019カミナリ、2018ウエストランド、2017ランジャタイと、なんか毎年毎年好きな芸人ばっか敗者復活の出番トップになるんだよなあ。

 シュールな言葉遊びネタで面白かったが、結果は度外視。好きな人に響けばよいという感じ。あんまM-1向けのネタを作られても持ち味が失われそうで悩ましい。なので、このまま我が道を行くでいいのではなかろうか。

 案外結構ベテランで二人とももう35前後。それでいて結成が遅く2015年なので、もう10年ぐらい出れるし、ラストイヤーが45歳ぐらいまであるのか。

 単独行ってみたいが、ファンクラブ入ってないとチケット取れないのかなあ。

 

ヨネダ2000

 予選を沸かせていたコンビで、先日The Wで初めて見たが、今回見たやつの方がとても面白かった。あれ実はシステム漫才にしてるんだ?!・・・えっ、あれを?!的な。

 単調にならない発想力も展開も凄く良くて思わず投票してしまった。ネタ作ってる人かなりヤバい。でも案外敗者復活戦で結果伸びなかったのは不思議だ。私の感覚がズレているのだろう。まあ私にはハマったということで。

 あの動き無限ループ、ネタのあとすんごい疲れそう。かなりいい運動量になりそうで、もしやダイエットを兼ねてたりするのだろうか。

 

ヘンダーソン

 こちらも不勉強ながら初見だったが、コント漫才に食傷気味な昨今、入りと見せかけての自虐はとても良い仕組みだと思う。意表も突くし緩く笑わせてくれて、あれはずっと見てたい。一気に好きになってしまった。ヨネダ2000と甲乙つけがたく、思わず投票した。

 

金属バット

 我らが金属バット、去年はトップバッターの憂き目を見たが、今年はいい順番。そして寒空の中大丈夫か?というスリリングな早口言葉ネタを完璧にこなし、アドリブも決めて、本当に最高だったと思うのだが、ハライチの後塵を拝した。うーむ。

 金属バットって別に玄人ぶるわけではないが、いわゆるwriter's writerというか、芸人が好きな芸人という感じがする。金属バットの笑いが嫌いな芸人はいないのではなかろうか。なのに結果がついてこないのはなあ。東京ダイナマイトに似てるかも。

 友保さんのゴリッゴリの芸人界1キツい関西弁と、構えが好きなんだよなあ。構えと言えばハチミツ二郎さんや矢作さんに通じる気もする。あんま動じない系。

 てっきり今年がラストイヤーだと思ってたら、来年がラストイヤーなんですね。もう絶対決勝行ってほしい。頼む。

 

 

 

勝戦・最終決戦

モグライダー

 名前は知ってるのでネタ番組かライブで見たことあるかもしれないが、やっと顔認識できた。よいトップバッターだった。

 ネタの題材がいい。「さそり座の女」がなぜ「いいえ、私はさそり座の女」から始まるのか、という至極どうでもいい着眼点を、良いネタに展開させた。

 

ランジャタイ

 本当に最高だったな。ある意味大会MVPでは。

 呼ばれてから移動の間の小ボケとか(早く来い!)、暫定ボックスから退出する際のオール阪神巨人師匠のくだりとか。沸きに沸かせた。M-1史上最高の最下位だと思う。本当に。

 大舞台で視聴者に免疫がついたことで、国崎さん来年すごい愛されそうな気がする。ピュアな苦労人が見つかったら愛される未来しかない。

 松本さんの「見る側の体調次第」というのは今大会一番好きなコメントかも。

 

ゆにばーす

 題材も構成も面白くて、とても惜しかったように感じた。劇場で見る度に面白いのだが、どこかやっぱ優等生的な枠が見えてしまうのかなあ。確かに松本さんのコメント通り、もうひと展開、もうひと跳ねあればーという感じなのか。

 M-1を研究し過ぎた結果、スーパーマラドーナみたいになってしまっているのかもしれない。まあまだまだ年数残ってるから、何度も挑戦してほしい。ホント、もうちょっとで最終決戦な気はする。

 

ハライチ(敗者復活)

 個人的に敗者復活は金属バットだった。敗者復活戦のハライチのネタも面白かったけども(でも爆発音鳴ってたしなあというのもある)。

 で、決勝でまた別のネタをやったのは偉いと思った。が、そのネタはちょっと一辺倒な内容だった。岩井さんが感情爆発させるところまではよかったんだけど、そこからの大きな展開がないと難しいのかも。これなら敗者復活のネタの方が強かったのでは。

 ともあれラストイヤーおつかれさまでした。思えば2008以降の出場回7回連続準決行って、5回も決勝行ってるのだから大変な実力者という他ない(吉本以外だと最多らしい)。退出時はいつになく爽やかな岩井さんだったが、思えばハライチが世にでたのも完全にM-1(2009)のお陰だものな。思うところは多々あるでしょう。

 敗者復活結果発表のとき、金属友保さんの吉本ギャラ上げてくれ、を受けて、澤部さんが「ワタナベエンターテインメントさん、私は満足いく額を頂いております」というのは流石バラエティスターの風格を感じた。瞬発力。

 

真空ジェシカ

 ワードセンスあるし、面白かったんだけど、決勝レベルだとほんのちょっとだけ凡庸だったかも。人力舎は好きなのだが。でも、初の決勝はめでたいことで絵も割とシュッとしてるし、来年は地上波露出増えるのではなかろうか。

 

オズワルド

 見取り図がまさかの準決勝敗退となったことで優勝候補の筆頭だったが、優勝候補になると優勝できないジンクスが発動してしまった。一本目のネタは文句なしに本大会で最高のネタだったと思う。ダントツで。

 そうなると、単独のネタもいいのばっかりだったし、同クオリティのネタには困ってないはずで、普通にこれは優勝するのでは?と思ってたら、最終決戦の二本目が案外ハマりきらなかったような。面白いのだが接戦になってしまって結果、優勝を逃してしまった。これはまたメガネびいきで指導を仰いでもらいたい。

 しかしオズワルドはシステム漫才でもキャラ漫才でもコント漫才でもない、かなりストロングスタイルなしゃべくり漫才で(だから好きなのだが)、かつ発想力(ありがちな題材にしない)とその質が図抜けているので、何回決勝出てきても飽きられないというか、笑いの量が落ちない強さはあると思う。

 そもそも私がオズワルドを認識したのは2大会前、2019に初の決勝に行った年の準々決勝か準決勝で、ピッチング寿司マシーンのネタ。あれが予選会場でも爆発的にウケてて、あと入りのおぎやはぎっぽさもあって、一気に好きになって応援してたら、決勝がミルクボーイの次だったせいか全くハマらず、ややスベリで切なかった。

 来年こそ優勝してもらいたい。それと来年の単独も行きたいが、もうチケットは取れないかもしれないなあ。

 

ロングコートダディ

 真空ジェシカと同じぐらいだったかなあという印象。面白いし、全然滑ってないというか、むしろ4位なのだが、ちょっと決勝レベルにしてはちょっとだけ凡庸だったかなあと。いや、普通のコント漫才にちょっと飽きてるだけかも。

 元々コントの人でKOC決勝も行ってるし、という若干の色眼鏡はあるかも。申し訳ない。別に嫌いというわけではなく、一昨年だったか南海キャンディーズ寄席で見たときから面白いとは思ってた(ロッカーを派手に閉めるネタ)。まずはKOCからなのかなあ。

 

錦鯉

 ここまで636~638点の2点差間にモグラ、ゆにば、ハライチ、真空の4組がひしめいていて、接戦という見方もできるが、逆にちょっと爆発待ちだったのかなあと。そんな状況でオズワルドが爆発したあと、ロングコートダディを経てうまく爆発できた。

 でも序盤とか、雅紀さんの間や返しがちょっと怪しく感じて、ロード時間かかったり飛ばしたりしてないかなーと観てて心配になったが、細かい粗をねじ伏せるだけの強さのあるネタだった。バカは百難を隠す。

 最終決戦も同程度のクオリティのネタを披露。今年結構忙しかったし疲れも溜まりやすいお年だろうに、しっかり2本仕上げてきたのはすごい。ミルクボーイや、マヂラブのつり革並みの圧倒ではなかったが、僅差(だと思う)で優勝を勝ち取った。

 漫才王者としての風格だったり、キャラ漫才だしと、最終決戦の結果どうなるかなーと思ってたら5/7を獲得。塙さんと富澤さんの涙が印象的。やっぱ苦労人には弱い。人間だもの。ダメな人でもいいじゃない。結局は人徳よ。

 今後気になるのは二点。

 一点目はテレビ一周する過程で、絵的に映えないとか汚いとか、お笑いに敵対的で心ない人からの変なバッシングが起きないか(そんなものはシカトでいい)。

 二点目は、SMAの先輩あの小峠さんをして「隆は万能で何でもできるヤツ」とまで評された渡辺さんの有能さに光が当たるのか。ツッコミの感じとか、単発のANN0の感じとかからして、確かにかなりのポテンシャルは感じる。現在トップクラスのサブMC人材(小峠さん、アンガ田中さん、麒麟川島さん、陣内さん、ノブコブ吉村さん、パンサー向井さんとか、アメトーークの芸人ドラフト会議の上位に名前呼ばれるような人)に割って入れたりするのか。

 ともあれ、こんなの今年のM-1アナザーストーリーは期待せざるをえないでしょう。

 

インディアンス

 アンガ田中さんが、このところのお笑いを「ツッコミの時代」とどこかで評していたような。私が同感だが、そんな中、アンタッチャブルザキヤマさん系譜の「ボケで笑わせるタイプ」って今時稀有だと思う。少ないですよね。どうしても、ツッコミでなぞって笑わせるコンビの方が目立つと思う。おいこがとか、ぺこぱとか、ミルクボーイとかも。ウエストランドも見取り図も。

 それと手数。特に第一期M-1は後半になるにつれて手数勝負化してきた感がある(ノンスタ、ナイツを筆頭に)のだが、それがやや落ち着いてきた(手数より質への回帰。その極北はカミナリ)中、手数数がすごくて、なもんで単純な笑いの総量だと確かに優勝してもおかしくない。

 が、やっぱ手数勝負漫才ってあと一歩になってしまうのかなあとも。小笑いを積み重ねるだけだと、どこか腹に来ないというか。コンディション次第かもしれない。

 劇場で見る度に面白かったものの、なぜかM-1決勝だとちょっと上滑りな感じがしてた。が、今回はいい感じにハマった。視聴者の慣れや免疫で追いついてきたのかも。

 

もも

 初見の若いコンビ。まだ4年目だとか。初決勝進出時の霜降り・オズワルド・ホテイソンが5年目みたいなので、そりゃ確かにフレッシュ。

 ちょっとまだ硬さがあったかなーというのと、見た目いじり漫才はおっさん(私)にはちょっとそこまで響かなかったが、結果5位で大健闘だったのでは。初見のシステム漫才ということもあったのだろうか。

 若いニューカマーということで、来年全国地上波の露出が増えるのだろうけど、一方で第七世代ブームの終了と共に、若手は出にくかったりするのかもしれない。

 ネタ終了後の掛け合いでちょっとイキってたのが滑ってたし、悪い方向にいかないか、やや気になる。コウテイもそうだけど、もしかして大阪の若手って尖りブームが来てたりするのだろうか。東京に舐められるな的な。維新の会の影響だったりして。外れてるとよいが。

 

 

最後に

3年ぶりぐらいに、予選をほぼほぼ見ない決勝だったが面白かった。でもまた予選は見たいなあということで、M-1ファンクラブ入るか悩むが、フェイスブックアカウントを使うようなので、FB未登録の未としては敷居が高い(面倒)のだよなあ。

FBアカウント登録は転売防止のため?と思ったが、それなら電子チケットでスクリーンショット不可にすればいいだけだしなあ。

 

電子チケットと言えば、今年の準決勝から導入されてたが、それなりに効果あったのではないかと思う。転売がひどすぎるんですよね。

チケット流通で、準々決勝のある回の分が数えたら30枚ほど転売されてたので、ルミネtheよしもとのキャパが450席だから7%近くが転売?これはちょっとやっぱ対処してもらわないとなあと思ったりなんかした。

 

あと、佐久間さんの何かで見たが、最近はM-1決勝進出者全員が結構それなりに売れるという話。確かに以前は、決勝のうち優勝者とバカパク賞的な人しかそこまで売れず、翌年でも結構消えてる人も多かったかもなあという印象はある。何でかと思ったが、もう長いし感想の範囲を超えるのでまたの機会に。

 

 

 

余談が長くなりましたが、錦鯉優勝本当におめでとうございます!

佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO) リスナー大感謝祭2021 ~freedom fanfare~

有楽町東京国際フォーラム

1月11日に開催されるはずが、コロナ新規感染者激増による緊急事態宣言により、延期されていた佐久間宣行ANN0イベントが遂に改めて開催されたので参加してきた。

現在、私の職場のプロジェクトは緊急事態宣言明けで週2出社体制なのだが、ちょうど金曜が出社日だったので都合よく参加できた。

もし仕事の進捗が芳しくなかったら週末やることにして、この日はとにかく定時ですぐ上がろうかと思ったが、ちょうど定時時間に同僚に捕まり質問タイムがはじまってしまったので職場を出るのが遅れ、結構ギリギリの参戦となった。

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東京国際フォーラムAの案内板

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当日の若干枚数で入られた方もいるのだろうか



 

チケットは今回、電子チケットで、また、1月のイベント用に取ったチケットを、そのまま使えるという案内が延期決定の際に出ていた(てっきり一旦キャンセル&払い戻しで、次回公演が決まり次第チケット取り直しだと思っていたので、払い戻ししかけており、危なかった)。

あまりそうした振替公演の経験がなく、そんなことできるの?と思って、電子チケットなこともあり若干不安だったが、入場は無事にすることができた。
電子チケットということでトラブル対策用だろう、チケットぴあの総合案内みたいな出張所机もあったので、多少のトラブルは直談判でなんとかなるのかもしれない。

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無事にスタンプが押された電子チケット

 

 

客層と臨場感

直前にインタビュー動画があがっていて、そこでは、毎回単に出し惜しみしないで全部出して、めちゃくちゃ楽しかったなって言ってもらえるのが一番、と語っていたが、本当に最高にめちゃくちゃ楽しかった。あっという間の2時間だった。

 

 


昨今の風潮的に言い方には気をつけたいが、会場の男女比率はもう、9.5対0.5ぐらいな感じで、周り見ても女性は20席に1人いるかどうかぐらいだった。わたし含め、おっさんが割と多めだったような気はする。正確な年齢層の比率はよくわからないけれど、まーでもとにかく男性支持の多さが伺えた。

 

 


そこで思い出すのは、かつて島田紳助さんが言っていたという(俺たちを甘やかしては去っていく目の前の若い女性ファンではなく)TVの向こうの20~35の男性を狙って笑かす―――という話で、もちろん佐久間さんがそれを意識して狙ってるわけではないだろうし、そもそも元テレ東の一人のおじさんディレクターにワーキャーなファンが付くはずもない(わざわざラジオ出待ちをした藤田ニコル母のようなコアなお笑いファンぐらいだろう)わけだが、自然とそれを体現しているんだなあと思ったりした。

そう、佐久間さんはお笑いAORなのだ。

 

 

 

上の島田紳助さんの話は、若い女性蔑視ということではまったくなく、単に価値観の細分化に伴い万人受けする笑いは必要なくなってくるから、誰をターゲットにするかが大事、という話だった。

そうなると学生とか価値観の変わりやすい層だけを相手にするのはリスク高いよ、という話だと解釈している。その点、おっさんは確かにいつまでもキン肉マンとかマトリックスとか好きだったりするし、よく言うと価値観が固まっており「信じられる」客層なのかもしれない。

※とは言え、無名時代に有象無象の中から引き上げてくれる初動のファンは、芸人にとってもちろん決定的にありがたい存在なはずなので、ワーキャーなファンが一律に悪いというわけではない。

 

 

 

ということで話を戻すと、5,000人の満席のホールAは圧巻だった。私はかなり前の方の席だったので、トークが客席側にフォーカスされた際に時折後ろ軽く振り向いてみたが、本当に大迫力だった。

お笑いライブ、特にトークライブは大抵数百人のキャパのところでやることが多く、数千人数万人クラスの会場は音楽と組合せるようなものが大抵な気がする。

そんな中、トークライブで5,000人はなかなか異例な気がする(私の経験ではオードリーANN武道館ぐらい)し、その規模の歓声や拍手や笑い声の臨場感は、やはり配信では味わえないもので、生のお笑いライブはいいなあと改めて思った。

 

 

私は通路に隣接した席だったので、警備係?の顔も見えたのだが、その警備係の方すらも客席を見ながら耳に入る佐久間さんのトークやコーナーでちょっと笑っていたのを見て、お笑いっていいもんだなあと思ったりした。

 

 

佐久間さんの魅力

佐久間さんは「この5,000人はラジオが繋げたんだよなあ、すげえなあ」「皆さん頭おかしいですよw」と繰り返し言っていたが、確かになぜ、私含め皆7,800円も払って佐久間さんのイベントに参加したのだろう。

 

 

 

私はそもそもそれほど熱心なゴッドタンファンではなく、毎週見始めたのもここ5年ぐらいと、それなりに最近だ(昔は尖ったネタが多くて私には少し難易度が高かった)。

佐久間宣行の名も当然それほど意識してはなかったが、きっかけはあちこちオードリーで、あの高クオリティトーク番組のPもゴッドタンの佐久間さんと聞いて、以来名前を意識するようになった。

それから試しに開始半年後ぐらいのANN0を聴いてみたところ、トークのクオリティが異常に高く、今回ミラクルボーイD松が、あのときANNイベントの場を制圧してたと説明していた通り、毎回かなり圧倒的な笑いの量で、以来毎週のリスナーになってしまった。

 

 

 

佐久間さんは、いつ終わってもおかしくないし、人生の思い出になるよう毎週悔いがないように準備する(トークを仕上げてくる)、というようなことを言っていたが、このクオリティのトークネタを毎週用意してくる若手がいたら、秒で天下を取れるだろう。

 

 

 

佐久間さんのトーク

佐久間さんのトークの何が面白いのか、何が5,000人(に加え配信チケットが同数以上)ものリスナーを東京国際フォーラムAに呼ぶほどの熱を持たせたのだろうとふと思った。

私が思うに、確かにトークの作家的構成力や、オチ前の独特の溜める間とか話術もあるんだけど、その本質にあるのは「面白がる能力」「面白さを見つける視点」ではなかろうか。

 

 

 

90年代の終わりに松ちゃんは突如坊主になり、ストイックに笑いを追求するというカリスマになった。その頃の松ちゃんに対して私が印象的だったのは、一見普通で笑うところのない特徴のないところや、笑いにするには難しいところにこそ「面白さを見つけて」具現化する、無から有を生む姿だった。

というのは幾分大げさな話だが、何を言いたいかというと、恐らく佐久間さんの周りに起きてる事柄というのは、我々の周りに起きていることと、きっとそれほど大きな差異はないのではなかろうかと思うのだ(もちろん私の周りにタレントや業界人はいないが)。

 

 

 

ではなぜ佐久間さんがこれほどまでにリスナーを惹きつけるのかというと、私たちが見過ごしている日常の中の面白さを見出し、かつそれのセンスがよく、そのうえそれをトークに昇華させる努力(メモとかきっと試し打ちとか)、それら全てが傑出しているからだろう。

 

 

 

佐久間さんは最後、イベントの〆トークとして亡父のエピソードを語り、父のユーモアセンスに静かに感動し、尊敬(と呆れも)したことを話していた。どんな悲惨な状況でもユーモアを忘れないこと。それは佐久間さんのバックボーンにもなっているということなのだろう。

 

 

 

それって私たちも意識してもいいのかもなーなんて思ったりして、2時間大いに笑わせてもらった上に、しみじみとした感動すら覚えたのだった。

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TV番組からは唯一、あちこちオードリーから。

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さらば東京国際フォーラムA



 

今後の期待

今後の展開として目指せ武道館という単語も出ていたが、正直今回の5,000枚のチケットのうち若干枚数はCloakでのリセールにも残っていたので、一旦は今のキャパがMAXなのかもしれない(実際はもっとradiko聴取率とかYoutube登録者数とか色んな指標を基に判断されるのだろうけど)。

し、大舞台は結果としてついてくるものであって、別に今からいきなり武道館満員へ向けて!みたいなのも違うというか、今すぐそこにこだわらなくてもいいかなーという気はしなくもない。ファンとして変にチケットが余ってると寂しいし、考えてみれば興行って結構難しいものだなと思ったりした。

 

 

 

ともあれ、今後の展開、直近だとネットフリックスのトークサバイバーはとても楽しみになった。お笑い芸人たちが、過酷過ぎてシーズン2なんて絶対ごめんだと言い合っている、なんて最高ではないか。

思えば衝撃の脱サラ以降、Youtubeチャンネル(お笑い知識ゼロ説明とか、ティモンディのやつとか、春日のやつとか、悪いな~と言いながら泣くほど笑った)、東京03とスタア、考えすぎちゃん、サクマ&ピース、とわずか半年で怒涛のコンテンツ攻勢で、どれも最高に笑わせてもらっている。

 

 

思えば、自分がターゲット層となるエンタメ、自分を楽しませてくれるエンタメがある状況は、実は当たり前のことではないのではないかという気が最近している。

ちょっとした世代の違い、価値観の違い、感性の違いで何が面白いのかは随分変わってくるし、自分がボリューム層であるともそれほど思えないし、そうなると面白いコンテンツというのは、存在するだけで&作ってもらえるだけでありがたいのかもしれない。

佐久間さんの作るコンテンツは、大抵はどう見ても万人受けを狙ったものではない。たまたま私はそれを面白いと思うものの、それって実は貴重なことなのではないか。コンテンツの多様性の海から、いつ私が放り投げられても不思議ではないわけで。

 

 

なので自分を楽しませてくれるクリエイターに感謝をしつつ、今後も元気に良質なエンタメコンテンツを作ってほしいなーと改めて思ったりなんかした。

なぜ君は総理大臣になれないのか(2021日)

良質なドキュメンタリー

www.netflix.com

※なぜか英題になってしまう。

 

前から観たかったもののタイミングが合わなくて映画館に行けず、ネツゲンの作品は配信されないという情報を目にして諦めていたのだが、Netflixに配信されていたので観ることができた。


監督大島さんは、こんな(観る人のいなさそうな)題材でわざわざ一本作って、なかなか骨のある監督だなーと思っていたら大島渚さんの息子らしい。TVタックルの血筋なのか。

 

劇画大宰相なんかを愛読していたりしてマクロレベルの政界話はエンタメ的に読んではいたが、ここまでミクロな選挙活動だったり、素の政治家像が描かれていたのは初めてで、とても面白かった。

 

小川じゅんや氏は本当に謹言実直でピュアな青年で、初当選時は弱冠32歳。作中周囲(監督、両親)から「政治家に向いてない」という話がされるのだが、だからこそドキュメンタリーとして成立したのだろう。

本人には大変失礼ながら、悪い見方をすれば幾分素人然としているというか、多くの人が想像するリッチな政治家像とは随分かけ離れており、まるで「政治家になってみた」というか職業体験ドキュメンタリー的な感触すら受けた。

 

 

政治家としての資質

なぜ総理になれないのか、というと、そりゃ野党議員だからというのももちろんあるが(とは言え作中では2003年の初当選から描いているので、民主党政権の時代も含まれている)、やはり資質の問題があるように思わされる。

 

それは人格的に不適合ということではなく、田中角栄が言うところの「政治とは数だ、数は力だ、力は金だ」、という論理からすると、数を作る(派閥を作る、大きくする、出世する)というところの才というか、意欲、特に権力欲に欠けるためではないか。

大宰相やその早坂茂三氏の解説を読むと、いかに政治が男の権力欲の見苦しくも激しい情念の世界か。政治は乙女の祈りではない。かつて前尾繁三郎のような人がいて子分に愛想を尽かされ派閥を追われてしまったように、やはり政敵に多数派工作を仕掛けて権力奪い取るような権謀術数、手練手管がないと、政治の世界で「人の上」には立てない、すなわち総理になれないのではなかろうか。

 

冒頭で本人が自称しているように、日本をよくしたいだけの政策オタクなのだ。それは眩しいし、実際に政治に携わってほしいのはこうした方ではあるが、やはり人間の様々な欲望が原動力となって廻っている、高度資本主義社会においては広範な支持は得られにくいのかもしれない。同選挙区の競合が、香川で7割のシェアを誇る四国新聞のオーナー一族である平井卓也ともなれば、それはさらに厳しい戦いを強いられることになる。

 

また、政界でなんとかイニシアティブを取って、何らかの潮流を生み出そうと思っても、比例復活者は政界において(我々が思ってた以上に)形見が狭いというのは新たな知見だった。選挙区で落ちても、なんだ比例で復活かよと思っていたが、存外政界における影響力というかダメージは大きいらしい。小川氏は当選6回とは言え選挙区では6戦1勝5敗だった。

 

 

民主党の凋落

先日の衆院選挙の結果を経てまた明確になってきたのは、野党第一党である立憲民主党は、結局社会において最も大事な「経済政策」というものをあまり全面に出さず、自民党の問題点の追及や少数派の尊重といった重箱の隅ばかりを訴えるから負ける、ということだ。

 

もちろんモリカケサクラは軽視してはならない問題で、特に森友学園については公文書偽造の挙句に担当者の自死という、権力者により強いられた犠牲が闇に葬られているのは道義的に許されないと思っている(柳澤健「2016年の週刊文春」での描写を読むと、とても些末な問題とは思えない)。だがそれに対して感情移入して義憤に駆られる人や、また、同棲婚や苗字問題が人生において(言わば日々の給料や物価よりも)決定的に大事な人は少数なのだろう。だから広範な支持になりにくい。

 

さて、ではその野党が(れいわ新選組的な突飛なものではなく現実的な範囲の)経済政策を打ち出さないのはなぜだろう。当初の私の予想では、経済政策を検討するだけの情報に(与党議員に比べて)アクセスさせてもらえないのではないかと思ったが、小川氏がそうであるように、民主党もそれなりに元官僚がいるはずだ。となると派閥の長である上層部の判断というか、引いては人的な質の問題なのか。聞いてみたいところだ。

 

予想を加えるなら、自民党が私達の政策をパクって~という一節があったように、結局のところ自民党はかなり総合的というか、軸らしい軸がかなり曖昧な鵺のような政党なので、毎度争点の明確化は困難で(そのため有権者は投票行動の検討が困難で、低投票率につながっているのだろう)他政党にとって対抗がしにくい、というのはあるかもしれない。

 

 

なぜ安倍自民は強かったのか

また、メディアがあまり昭和や平成初期の頃程、政権与党に対する批判をしなくなったようにも見える。平成以降だと宮沢、橋本、森、安倍(一期)、福田らは支持率の低下により退陣に追い込まれ疑似政権交代が起きたが、下野を経ての安倍(二期)時代は、強かになったというか、あまりにも長くなり過ぎた。

 

ここで脱線するが、なぜ安倍政権はこれほどまでに長期化したのか。幾つかの理由があるだろうが、私が推測するに、
 ①下野を経て、自民党議員内に、派閥争いは依然するにしても党全体の支持率を下げるような内輪批判はほどほどにしようという心理が働いた。
 ②ふんだんにメディアに官房機密費を流すなり、NHKに圧をかけるなり民放を抱き込むなりで、メディアに積極的な批判をできるだけさせないようにした(という説)。
 ③そもそも小選挙区制が、党執行部が派閥よりも強くなるシステムだから。
 ④戦後さすがに50年以上も経つと現在の選挙制度が洗練されて、世襲候補の優位性と、新規参入の困難さによって議員の小粒化が進み(小川氏のように熱意だけで支持層、名声、予算すべてが無い状態で、現在の職業を辞してまで挑戦するような人は極めて稀)、結果かつてのような熱心な派閥争いすら無くなった。(戦後の混乱期に頭角を現したような癖と腕力のある親分的人材が減った)
 ⑤アベノミクスリフレーション政策により、失業率や株価といった雇用周りの数字が改善し続けた(とはいえこれはこれで実質給与が伸びないなど、粉飾的な要素もあるのだが)ことで、潜在的な支持率が堅調だった。

 

そういえば作中、田崎史郎氏が登場してくるのは意外だった。何でも、野党議員の中では小川氏を買っているかららしい。安倍自民御用達のポジショントーク政治評論家というイメージの強い田崎氏で、実際その通りなんだろうけど、結局のところ政治の世界は人と人なのかもしれない。

 

 

最後に

上で、失礼ながら資質に欠けるとは書いたものの、とは言え、小泉進次郎はあんなひどい言語能力ですら次期総理として一定の支持をする人がいるし、思えば父小泉純一郎のように派閥の支援は強くなかったにも関わらず、その清廉な(変人)イメージだけで総裁選を突破して上り詰めた例もある。

小川じゅんや氏も、風が吹けば何かの間違いで大臣ぐらいにはならないとも限らない。その起爆剤に本作はなっているように思う。50で勝手に定年視するのではなく、稀有な人材なのだから限界までがんばってほしい。

 

ただ、問題は政策志向で、本人としては持続可能性についての方針であり、どうやって経済成長させるかというよりは、いかに将来に向けて手当てをしていくか、が中心らしい(のように見える)。その点もなんだか小泉純一郎の「痛みを伴う改革」的な気配がする。

 

先日、選挙にボランティア参加した人の匿名ダイアリーがあったが、

anond.hatelabo.jp

こちらを読んだ上で本作を観ると、ボランティア参加してみたくなる気になった。ハードで多大な労力のかかることではあるが、やってみてわかる気づきが多々ありそうだし、確かに投票だけして義務を果たした気になり、嘲笑的態度を取ってるだけでは、あまり誠実な態度ではないというものなのかもしれない。

 

私個人としては別に反自民というわけではない(何しろ大宰相の愛読者なのだ)が、政治にこそ健全な競争原理が必要だと思っている。そういう意味で自民党一強は望ましい体制ではない。世襲候補も上限を制限してほしいと思っている。

作中小川氏は民主主義は51%の勝利者が49%の思いを背負うこと、と語っていた。

だが極論すると現状50%ちょっとの投票率なのだから、全体の26%が団結して自分たちに都合のよい政策をしてくれる政党に投票すれば残り74%に負担を押し付けることができる。

 

もちろんこれは重ねて言うが極論で、実際は負担の程度で風向きが変わるわけだが、でもそうした実利に無関心な宗教的信仰層の存在も加味すると、先ほど26%と書いたが、それどころか、実は10数%にとって都合のよい政策で進めることができるのではないか、と思ったりする。権力の独占はその傾向を加速するだけだろう。

 

とにかくあっと言う間の2時間だったので、続編「香川一区」が楽しみ。

明日のたりないふたり感想

先日開催された明日のたりないふたりを観て、今さらながらつらつらと思ったことを。

 

わたしと「たりないふたり

まず、私がこれまで多少なりともお笑いライブに行ってきた中で、最も良い体験だったのが「さよならたりないふたり」だった(ライブビューイングでしたが)。

順位つけるものでもないんだけど、言ってしまえば運良くチケット取れて参戦できたオードリーANN10周年武道館よりも、ある種楽しませてもらった。ベクトルの違いはあるので武道館ライブは武道館ライブでもちろん最高だった。が、さよならたりふたの2時間近くに及ぶ即興漫才は2019の御二人の状況もあって、本当に凄いモノを観たなあという感じだった。終わったあとはなんかため息が出た。

とは言え、12年前からの超熱心なたりふたファンというほどではなく、結構にわかな部類だ。恐縮です。ファン歴的には潜在異色はしらなくて、TVのたりふたを一応見て、その後しばらく空いて(アンテナ感度が低くてずっと見逃していた)、さよならで久しぶりに見て感動したという感じ。

 

そんな中、「さよなら」が最高だっただけに、思いのほか早く再開した(もちろん嬉しかったが)ように見えた「2020春夏秋冬」は、ちょっと話の流れに不穏なものを感じていた。

もちろん相変わらず最高に面白いんだけど「できる」若ちゃんが、「まだたりない」山ちゃんを諭す構図になっているのが、二人ともそれはそれは抜群の腕を持っているのでエンタメとして昇華はされているけども、大丈夫かなあ、山ちゃんしんどくないかなあという一抹の不安を感じさせるものだった。

 

 

山ちゃんと若ちゃん

それにしても二人は稀有なプレイヤーで、言わばタッグトーナメント編におけるキン肉マンテリーマンの「ザ・マシンガンズ」だ(まぎらわしいが)。二人ともそれぞれ、マッスルブラザーズとニューマシンガンズという、元のコンビ、本妻はあるし、尊重したいんだけど、ボケの若ちゃん、ツッコミの山ちゃんが、それぞれニンの面で最高に輝くのがこのたりふたの組合せなんだと思う。

ちょっとやっぱ、若ちゃんがあれほど自由に発想力を発揮してドライヴできるだけの相方、また、山ちゃんがあれほどの瞬発力と熱量とでノートとアドリブのツッコミを決め続けられる相方というのが想像つかない。さよならで見せた、あんなクオリティの即興漫才できるのって、ドリームマッチでも見ることはできないだろう。

 

本当に最高の組み合わせなんだと思うし、だからこそそんなキレイに解散しないで、年一でのトーキングブルース的に楽しませてほしいなあと、見終わった今でも思う。

はっぴいえんどとかBOOWYとかフリッパーズギターとかユニコーンとかThe SmithsとかThe Jamとかゆらゆら帝国とか、そんな絶頂期での解散なんて、単にカッコいいだけじゃないか。これが方向性の違いで、もう何も生み出せないとかならまだしも、年一とか隔年ででもいいから、楽しませてくれよーと思う。

でも、もはやここ昨今の流れで結婚とかビッグイベント(不毛では逮捕されて出所したらなんて言っていましたが)でもないと再開できない感は変にあって、まあスタッフの異動も大きな要因というトークもあったかと思うが、なんとかならんのかなあと思う。だって今回もオンラインで35,000人と、お笑いジャンルで最大の集客力のあるコンテンツなのに!

 

 

明日のたりないふたり

さて、本編だが、、、思い入れがないとちょっと引くぐらいのおじさん青春劇になった。なんかちょっとピンポンの最終回見てるような気分になった。アラフォーのユメギワラストボーイ。

開始からしばらくは二人ともすごいかかっていて、ああ、やっぱお客さんが入っていればもっともっとドライヴできそうなのになあ、と思ったが、中盤以降は本当に無観客ならではの、無観客でしかできない内容で、本当にグッときた。歯のないおじさんのくだりとか物理的という意味ではなく、あの展開の熱、感情は観客が入っていたら、あそこまで出てこなかったのではないか。

個人的なハイライトは、山ちゃんの「アップデートアップデートうるせえなあ!」という魂の叫びと、あんまりいないと思うけど、若ちゃんの独白で、不毛に乗り込んだあと「竹槍やめてアップデートしろよって簡単に言ったの間違いだったと思って、車止めて泣いたよ」ってやつ。

今回のライブ、私も正直8割の若ちゃんファン側ではあったのだが、2020の春夏秋を経て、山ちゃんガンバレ、そんな卑下するもんじゃないよ、あなた実力者なんだからと、どんどん両者イーブンに寄り添う心境になっていった。(とはいえ、140は2回行ってる程度には山ちゃんファンでもあるのだが)

 

復活をカッコ悪いなんて一ミリも思わないから(そういうファンたくさんいると思う)、いつか、タイミングだったり機が熟したときに「まだまだたりないふたり」でもやってほしいなと思う。できれば大き目なキャパの会場で。

 

 

 

オードリーについて

それにしても、オードリーはギリ天下を取ってないぐらいなのかもしれないが、いつの間にか非常によいポジションにいる。贔屓目かもしれないが。芸人が憧れる芸人ランキングでダウンタウンに次いで2位ってすごいことだ。ダウンタウンはある種どうしても別格みたいなものがあるから。

極個人的に、オードリーの二人と私は同じ歳で、立場は違えど、ド氷河期世代として燻っていた時期が同じため、(本当に勝手に)シンパシーを感じていた。2008年のM-1で彼らが世にでてきたときにも(本当に本当に勝手に)いや~よかったなあ!と謎の自己投影までして心動かされたものだった。

 

世に出た当初は春日さんのキャラ押しでいけるところまでいき、その後は若ちゃんの人見知り芸人、じゃない方芸人、読書芸人とかでの活躍で、世に潜在的にいるインドアなナード志向の人々の心をグッとつかみ、時代の流れに乗ったというか呼び寄せたというか、あとは才気で順調に売れっ子になっていった。

R-1の功績はバカリズムさん、KoCの功績はバイきんぐを世に出したことで、すべらない話の功績はケンコバさんを世に出したことだと思うが、アメトーークの功績は麒麟川島さん博多大吉さんと並んで若ちゃんを世に出したことではないか。

 

今では芸人人気もあるし、あちこちオードリーなんて、もう完全にポストアメトーークの番組だ(それでせっかくゴールデン昇格したと思ったら、早速お笑い実力刃が裏でやってきたので、お願いだからがんばって続いてほしいなと思う)。

もちろんラジオという本音を喋る場があることで(それを維持できているのも話芸の実力あってこそだが)、バカリズムさんもああすればよかったと唸らせた生き様芸人として、今後も長く活躍するだろう。

 

 

 

南海キャンディーズについて

山ちゃんはその点どうしても相方が、もちろんいい相方なんだけど、そこはどうしても、千鳥、かまいたち、オードリーといった同世代のポスト天下組らと比べると、コンビとしてのパワーが一段下がってしまうように見える。やはりそこはコンビとしての代表番組をいかに作れるか(巡り合えるか)になるのだろうか。

そう考えると、一時期の異常な不仲時代が、今でこそネタにして回収してはいるにしても、もったいない。まあでも人生色々あるしなあ。今からさらに昇っていくためには、素人考えで恐縮だが、不毛な議論をコンビでやるというのも考えられないものだろうか。結婚の頃とかたまにあったコンビ回、感触悪くなかったように思う。ナイナイANNで一度離脱した矢部さんが戻ってきたぐらいだから、何とでもできるとは思うのだが。

 

でも考えてみれば、男女コンビでそうした天下を取った例って多分なくって、いまでこそ、相席、ゆにばーす、メイプル、蛙亭、納言、パーパー、ラランド、シンクロ、ウェンズデイズとちょいちょい出てきたものの、男女コンビで天下だったり、太い代表的レギュラー番組ができた例ってちょっと記憶にない。

 

そんなところを、なんとか南海キャンディーズで切り開ければいいのになあ、なんて思ったりする。南海キャンディーズは2003年結成ということで、ぜひ結成20年となる2023年目標で何か起きないものか。まずはライブをがんばってもう一度漫才から、という感じかもしれないけど。

漫才と言えば、ちょっと前に南海キャンディーズ寄席を草月ホールに観にいって、その時の漫才が、アドリブ感があって大変面白かったのを覚えている。それこそオードリーに近いものを感じた。案外、ネタでまた再評価されていったりするのかもしれないな。それはそれで2回目のM-1 2007で一度折れてしまったように見える南キャンヒストリーとして熱いものがある。

 

 

 

次のたりないふたり

見終わってふと思ったのは、次のたりないふたりは誰だろうか。

改めてたりふたを振り返ってみると、やはり当時それまではネタ的に表現することが難しかったというかはばかられたというか、人見知り芸人とかじゃない方芸人とかインドア芸人とか。サブカル志向的な陰方面orientedな笑いが、時代をグリップし、少なくない層に刺さった感がある。

劇中でもあったが、ユニットの初期の代表テーマ「飲み会が嫌い」という態度表明は、確かに2010年頃では画期的なものだった。飲ミニケーションがまだ全然有効な時代だったし、TV業界、芸人もイケイケなマッチョイズムが強く残っていた中での勇気ある告発だった。それは共感する人々を大変勇気づけるものですらあった。

 

先日アメトーークでの生きづらい芸人の回に、久しぶりにそうした内側志向のネガティブ性を見たが、あそこに次のたりないふたりはいるだろうか。

最右翼はあちこちオードリーの出演あたりを機に爆発してきたパンサー向井さんだとは思うが、もうひとり、サブカルに造詣のある人がいれば・・・と思う。で、それは親友のチョコプラ長田さんではなさそう。読書習慣という滋養によって身に着く類の感性、それを感じる人はその回には見つけられなかった。(お笑い芸人としては野田さんからGAG福田さんまで好きな芸人揃いだったが)

 

向井さんも、その内側のネガティブ性や、その表側のスター性やニンの部分は申し分ないのだが、たりふたはそれだけではなく、ある種のサブカル感、文芸性まで持ちつつ、話芸における発想力(若ちゃん)と瞬発力(山ちゃん)を備えていた、とても稀有な二人だったのだ。

そう考えてみれば、あの二人が邂逅したのもなかなかの奇跡であり、さすがに向こう10年ぐらいは出てこないのかもしれない。ちょっと第七世代には見つからない。もし出てくるとすれば、それこそ本当に価値観を築く思春期に若ちゃん山ちゃんを見て育ち、二人に憧れて芸人目指しました的な、2012~2021年で14~23歳ぐらいを過ごしたような、これから養成所を経たりして世に出てくる人を待つしかないのかもしれない。

 

 

私個人がそのころに同じ熱を持って共感できているかは置いておくとして。

毒舌とポリコレとエンタメの未来

高校~大学ぐらいの時に異常に批判的というか毒づく時期があって、それはそれはもう、毒づけば毒づくほどよいと思っていた。バイト中に客にギャルっぽいのが来たら、裏で「さっきの量産型ギャルが~」とかなんとか、意味もなくひどいことを言っていた。

 

この辺はでも、当時結構な影響を受けていたフリッパーズギターのお二人からしてそうだった。ナンシー関さんもそう。TVbrosなんかもそうだ。oasisもひどかった。村上さんちの春樹大先生だって、作中でところどころ毒づいていた。影響で言うと、通っていた予備校の先生(代ゼミ富田一彦先生)なんかもなかなかの毒舌っぷりで、これら総じて、そうした世間の色々に対する批評性を持つことはよいことだと思っていた。

 

単純な口の悪さ、毒舌とは違う(つもりだった)。
自分から毒舌キャラぶって、あまつさえそれを免罪符とするのは当時から痛いと思っていたし、そこにはある程度前提となる見識を踏まえての、芸となる毒づきがポイントだった。

 

おそらくそれは、それまでの標準的教育を受けることで若者が身に着けることを期待されているであろう、スタンダードな道徳的価値観に対する、反抗期、逸脱のようなものだったのかもしれないし、いわゆるクラスの三軍性というか、王道ルートを離れはじめたことに対する自己弁護の代替だったのかもしれない。

 

それのストレートな反発の露出となると、モラル的あるいは法的に問題のある行為だったりするんだろうけど、不思議とそちらには魅力を感じなかった。ツッパリ文化が私の思春期には前時代的になっていたためかもしれないし、仮に同時代だったとしても、ゆくゆくピチカートファイヴを聴いたりする感性には、不良文化は全く響かなかった。(ろくでなしブルースはギャグとして好きだった)

 

 

 

しかし、そのうちそうした批判行為が、相対的に自分をよく見せるためでは?という疑念が沸き、以降そんなにそんなに積極的に毒づくようなことはしなくなっていった。大学2年ぐらいの話だ。

 

アスキー船田戦闘機さんがオルトアールの運用ブログだったかで、「批判をすると、そのことで相対的にその人より上になる気がして気持ちいいけど、それはただの錯覚」的なことを仰っていて、大変腑に落ちたのだった。おそらく、ツイッターやヤフコメ、はてブなどで目にする断罪系コメントの大半はこの快感なんだろうと思う。

 

だからネットリンチってなかなか解決難しいんだろうなって思う。投稿者ひとりひとりにとってのストレス解消の面があるから。名誉棄損だったり判決事例がいくら出たとしても、なかなかその辺、一般常識としての表現レベルが均されるまでは時間がかかりそうだ。

 

ともあれそれで、急に以前ほどの批判熱を持たなくなってしまった。もしかしたら一生分の毒を吐きつくしただけかもしれないが。枯渇した油田のように。

 

 

 

さて、そこにきて昨今のコンプラ重視、ポリコレ、傷つけない笑いである。
もちろんコンプラ大事だし、ぺこぱやミルクボーイ好きなんだけど、批判行為自体がNGで、ただただ黙従、相対性を以て肯定し合う風潮も、あんまり行き過ぎるとつまらないなあというか。世の中「芸になる毒」というのがあって、話術でも文体でも生き様でも。そういうのが消えていくのは、なんか退屈な気がしなくもない。

 

この辺の感覚って愚推するに、まずは戦後一貫して、より過激により過激にと進んできたのだと思う。戦前には教育勅語的な清貧な道徳観が(それなりに)あって、戦後の庶民文化はそれに対する反発がグラデーション的に徐々に進んでいった。そのピークがバブル期であり、ビートたけしANN(1981~90)とかだったりするのかな。ビートたけしの毒ガス系の著書読むと表現スゴいもんな。(そういえば小学校高学年になって、初めて買ったエッセイ本がビートたけしの世紀末毒談だった。三つ子の魂的なやつなのか。)

 

そうして一度ピークを迎えたあとは、言葉狩り表現規制、ハラスメント概念とかが出てきて、ただただ過激さを競うような風潮は、徐々に影を潜めて行った

 

でもそうしたチルアウトな方向性は、やがてまた10年後だったりぐらいには反転していくのかなあと思ったりする。なんだかんだで2010年代に有吉さんやマツコさんがブレイクしたのって毒舌的批評性だからだと思うし。やはり毒舌的批評性は求められてはいるのか。


それに、

「強きをけなし弱きを笑う。
 勝者のアラさがしで庶民の嫉妬心をやわらげ、敗者の弱点をついて大衆にささやかな優越感を与える。
 これが日本人の快感原則にいちばん合うんだな。」
「卑しい国民だ。」
「だから独裁者も革命家も出現しないんだよ。いい国じゃないか まったく」

 

91年のパトレイバーでこのように看破されてるように「強きをけなし弱きを笑う」国民性である(これは本当に慧眼で、ワイドショーやネットニュースやコメントで散々目にする構図で、国民性というのは早々変わらないものなのかもしれない)。

 

そこに急速にポリコレだー、傷つけない笑いだーと言いつつ、やはり常にそうした毒舌的批評性は潜在的に求められているのかもしれない。そういう意味で、ネクスト有吉/マツコ/坂上忍のポジションとして、若手芸人で比類なき観察眼のある鬼越トマホークが、もう二段ぐらいブレイクするかは結構注目している。

 

 

 

もちろん今でもYoutubeを探せば、編集や検閲が無い分、ただただ過激さを求めた言説はあるにはあるのだけど、先鋭化/カルト化した極一部の層のみを対象としているだけで「芸になる毒」には至ってないというか、そうなると受容層が広がっていく感じがない。

 

いつも逆張りで極論露悪主義を採ってる小林よしのりさんやホリエモンさんもそうで、刺激的で面白いかというとそうでもない。多分身を削ってないからだろうな。負け顔しろとまで言わないけど、多少なりとも身を削ってくれないと面白くならないのかもしれない。

 

でも昨今の、「私は傷つけられました」と表明するあまねく人々に配慮して、誰も傷つくことがないようその保護層を広げていくのって、ゆくゆく行き詰まりそうじゃないか。結構なディストピアだよな。そうした規制の下で生まれるエンタメってどうなんだろう、だんだん退屈なものが増えていくのかなーなんて思ったりする。ヒューマンドラマは好きだが、それだけでは飽きるというか。

 

 

 

そもそもそんな、誰も傷けられない表現の世界なんて実現可能なのか。件のかわいそうランキングの話のように、KKO(きもくて金のないおっさん)はいくらでも傷つけてOKみたいな、線引きの恣意性は解決できるのか。「この表現はNG」というブラックリストが無限に追加され続ける世の中ってどうなんだろう。それよりはブラックリストを最小限にする方向性の方が自由度があってよい。

 

つまり、これまで散々っぱら「傷つけられた!撤回しろ!」と被害者ムーブしてた人が、まあそれも表現の自由だねと、全員が寛容になる方が早くて現実的に思う。程度問題だが。要は騒音0dbにはできないんだから、80dbはなんとかしたいけど、40dbぐらいは勘弁してよと。

 

いつかは今の流れから逆コース的反転が起きて「いや、もうアナタは傷ついたかもしれないけど、皆がそんなに配慮してたらキリないじゃん。アナタもどこかで誰かを意図せず傷つけてるでしょう?てことは、私は人を傷つけるが人が私を傷つけるのは許さないってことになるでしょう?だから常に被害者ムーブしてないで寛容になってよ」っていう風になったりするのだろうか。

 

カルト的で極論な芸のない批評性と、チルアウトなポリコレ主義の二極化するのが一番つまらんなー、なんて思う。

 

ホライゾン・ゼロ・ドーンをクリアした

ホライゾン・ゼロ・ドーンをクリアした。めちゃ満足した。2017年10月ぐらいに買っていたようで、それから実に3年近く寝かせた挙句、ちょっとだけ遊んでまた半年放置してから、やっと本腰を入れて遊んでクリアに至った。(2021のGWは無料配信で遊べるそうですが)

 

 

 

ステルスアクション

JRPGライクな、正面から殴り合いで倒して進むのに慣れていると、序盤は結構面食らう。単純な対面での殴り合いになると、敵である機械の獣の方が強いので、結構その辺の感覚が慣れるまでかかった。それがステルスアクションというものらしい。


懐かしのメタルギアソリッド(ちなみに私はPS2MGS2以来だ)のように、相手に察知されないように倒すことになる。

具体的には、

  • 敵に感知されない遠距離から、遠距離弓矢を使って倒す
  • 敵に感知されない草むら(ところどころにある)に指笛で誘い込んで、クリティカル近距離攻撃で倒す
  • 半分ぐらいの敵は決まったルートを巡回するので、その経路にワイヤートラップをしかけて倒す
    ※暴走族のルートに針金仕掛けるような感じだ(犯罪)

こんな感じで、もし感知されたりすると諦めて殴り合いするなり、逃げたりする。

 

メタルギアソリッドのようなステルスゲーは神経使うので苦手だったが、楽しくなってくるのは、しばらく遊んで敵の感知範囲、気づかれる距離だったり、角度だったりを把握できてからだ。

 

例えばサイレントキルにしても、どこまで近づいたら気づかれるのかがわからないとドキドキするだけだが、草むらに隠れてると触れてても気づかれないぐらいまでOKなんだなとわかるので、そういった感知範囲を把握して以降は楽しかった。

 

 

 

ポストアポカリプスSFストーリー

メインストーリーもなかなか説得力を感じる、重厚な内容だった。

公式サイトのストーリーにもある通り、本作は現代文明が滅んで1000年経ったあとの話なのだが、背景としては、
 ①自動制御機械を作る企業ができて、大躍進した(うまくいったテスラみたいのものか)
 ②当初は家庭用のサポートマシンを製造していたが、軍事用にも進出した。
 ③最終的には軍事用機器に対し
  ・有機物を取り込んでエネルギー化する機関
  ・敵対マシンへのハッキング機能
  ・製造管理拠点(マザーマシン)による自動製造と動的な設備配置
  これらを開発、パッケージング化して世界中の国家、営利組織に販売し、大変な利潤を生んだ。
 ④バグによって機械群がマザーマシンごと人間に敵対するようになった。

 

AIやクラウドコンピューティングといった、それらの基盤となる技術が当たり前になってきた昨今でも、さすがに2030~2050年ぐらいにこうした事象が起きるとは考えにくいが、大雑把な方向性的には結構説得力あるストーリー。紛争地域で使われているとか、ドローン脅威論もたまに目にするし。

 

私の好きなマンガ「ぼくらのよあけ」では、近未来で「オートボット」と呼ばれるAI搭載マシンがルンバが進化したような万能サポーターでかわいらしく描かれていたが、確かにあれだけの技術力があれば軍事転用の可能性はいくらでもあるよなーと思ったりなんかした。

 

シンギュラリティ観点としては、あと、自動で活動のためのエネルギーと、製造のための資源(収集まで)をまかなえればよいのかなと思うが、作中のような2050年とかは無理でも、3000年ぐらいにはなんとかなっていそうな気がする。

 

ただ、翻訳がどうもイケてないというか、雰囲気を楽しむのが辛い場面が多い。特に序盤はその辺の雰囲気に慣れるまで辛い。進歩の過程にある未開民族たち的な世界観なので、あえて翻訳をそうしてるのかもしれないが、結構クセがある。

 

ともあれ、ストーリーはやっぱちゃんとロジカルにできているというか、精神世界の話に逃げないところはよかった。なんかうまく言えないけど、DQ10とかFF10の途中であったような、頭の中で展開するような雰囲気メインの話とかは、ちょっとやっぱプロットにおける逃げ感(意外性があって、かつ、説得力のあるプロットを思いつかなかったからじゃないの?だから考え方次第で何でもありな観念世界に逃げてない?)が強くて私はあんま好きになれない。

 

 

 

クリアしてみて

ビジュアル面は非常~~に美しい。ゼルダBoWは結構影響受けていたのだろうなーと思ったら、両者ほとんどリリース時期が変わらなかった。ゼルダのトゥーン調も好きだったけど、本作の写実感も没入感高い。敵が多くてあまり風景をゆったり楽しめなかったが。

 

戦闘も楽しかったものの、中盤以降に出てくる大型機械は結構時間がかかるようになってしまったので、後半1/3は難易度をNormalからStory(一番楽)にしてヌルく遊んだ。難易度変更の際にはリロードとか面倒なことがなく、オプション設定で一発なので助かった。

 

その難易度は何が違うのかなと思ったら、本当に攻撃力と守備力に係数かけてるだけだった。要は5発当てないと倒せないところが1発で倒せる的な。逆に、それだけで難易度が大きく違うので、そう考えるとゲームバランスってほんとにただの数値でしかないなーと思ったりなんかした。大体90時間ぐらいでクリア(バヌークの像や鉄の花など収集物は概ね集めてサブ/サイドクエもコンプした)できたものの、Normalのままだったら1.5倍ぐらいかかってたかも。

 

 

 

まあとにかく、ディストピアSFオープンワールドゲーとして、大変愉しめた。そういやゼルダも世界崩壊後のディストピア世界観だったな。もちろんオープンワールドゲームってそういう設定ばかりではないだろうけど、RPG系ゲームってそれなりに絶望的な状況からはじまるもので、例えばドラクエ2だって魔王ハーゴンが復活して、ムーンブルクが滅ぼされたときからはじまるし、FF4やFF6も悪い帝国の脅威が最初に描かれたりする。オープンワールドゲームの場合、その没入感のせいで、その辺の絶望感の迫り方が強いのかもしれない。

 

年とってくるとどうしても可処分時間が減ってくるから、作業感強めだったり、ストーリーがシンプル過ぎたり複雑過ぎたりするのはちょっともう食指がのびなくなってきてしまい、もっと、より「ゲーム体験」として良質かを気にしてしまうが、本作は本当によいゲーム体験をさせてもらった。

 

とはいえ今年2が出るらしいが、ちょっともうおなかいっぱいなので当分遊ばないと思う。作業感ってほどではないけど、やっぱやれ採集だやれサブクエだと、ボリューム感がすごいんですよね。

 

それにしてもこういった、いわゆるAAA級の大作オープンワールドゲームは海外メーカーじゃないと作れなくなってるのが寂しい。開発費用がどれぐらい違うのかを知りたい。

シン・エヴァンゲリオンを観てきた

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さらば全てのエヴァンゲリオン

シンエヴァ、次回予定のお友達とのオンライン飲み会で、自分以外の皆が鑑賞済だったので、ネタバレ配慮されるのも悪いと思って観てきました。たまたま監督の舞台挨拶回でした(舞台挨拶はライブビューイング)。

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日曜早朝の新宿

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早朝の舞台挨拶回

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久々の映画館

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コンソメWパンチのポップコーン


以下諸々感想。

 

作中はやはり大量の未処理情報群が頻発。重要な情報を短いカットや、ちょい出しにする手法によって。これの根底にあるのって「観客に安易にわからせたくない」というものなんじゃないかなー。

 

 

 

エヴァと自分語り 

と、不毛な文句から始まったが、元々エヴァは結構熱心なファンで、TV放映当時は高校生だった。

 

私は小学校~中学校の始めぐらいまでは結構熱心なアニメファンだった。NHKでやっていた庵野監督の「不思議の海のナディア」も大変愉しんだし、当時はテレ東が18時台に毎日2本はアニメをやっていて、平均すると1日1本は見てるぐらいだったと思う。

 

キャッ党忍伝てやんでえ」「ガムラツイスト」「魔神英雄伝ワタル」「パトレイバー」「らんま1/1」「悪魔くん」「おぼっちゃまくん」「聖闘士星矢」・・・などなど。でも中学校後半になるにつれて、趣味・嗜好が変わってアニメを見なくなってしまって、あんなに好きだった「魔神英雄伝ワタル」の続編、ワタル2も見なかったぐらいだった。

 

そんなアニメ離れを起こしていた高校生の私を再び引き戻すほどには、エヴァは強烈な体験だった(たしか本当に偶然ザッピング中に、6話「決戦、第三新東京市」を途中から見たら、すっかり引き込まれて、マジやべえ!ってなったのだった)。

 

人生で初めてアニメイトに行った(そういや特に当時はまだ、宮崎事件の影響なのか、IT革命によるサブカル文化の波及前だったからなのか、どうもアニメはやっぱ非モテの悪いイメージが先行していた。今とは隔世の感がある。)のもエヴァきっかけだったし、関連書籍やCDも収集したし、A列車で行こう4やシムシティ―を遊ぶ際には都市名を「第三新東京市」にするぐらいには、熱心なエヴァファンだったと思う。

 

 

 

 エヴァの何が好きだったか

ただ、じゃあ私がエヴァの何に惹かれていたかというと、人類補完計画だったり死海文書だったりゼーレだったり、作中にこれでもかと盛り込まれた謎・伏線に対してであった。こんなにたくさんワクワクする謎があって、それがどう説明付けられるのだ?!と。

 

で、それが結局TVアニメ最終回までにあまり明かされず、それは締め切りもあったろうししょうがないのかな(おめでとう??)ーと高校生なりに思ったものの、その後の劇場版を見て、やっぱり腑に落ちる感がなかった(気持ち悪い??)ので、そこでちょっと醒めてしまったのであった。コミック版も集めてはいたが、5巻ぐらいで大学生にもなっていて、続きを買わなくなってしまったのを覚えている(まあその後なにかでチラ見したけれど、そもそもその辺の謎要素って結局フレーバーテキスト扱いだったみたいですね)。

 

そうした謎要素だったり、あとはシンプルに綾波レイ静物的なフェティシズム的魅力だったりとか、作中の要所要所で描かれる第三新東京市の寂寞さを愉しんでいたような気がする。

 

 

 

エヴァが描いてきたもの

また、現在の私は、どうも基本群像劇系が好きであるようで、例えばゲーム・オブ・スローンズだったり、ダウントン・アビーだったり、アヴェンジャーズだったりする。ガンダム(ZZまでしか見てませんが)もそうかもしれない。

 

それに比べるとエヴァってどうしてもシンジ君にフォーカスされた物語であって、セカイ系という単語を生み出してほぼ同義となったように、コンテンツのボリューム(長さ)の割に一人称性の強い作品だと思う。乱暴な見方であることを承知で言うと、そういうところもあって、ある種自分が世界の中心にいるように感じられてしまう、特有の世代に刺さったのではないか。怒られるが。

 

もちろんミサトさん、ゲンドウ、レイ、アスカと周辺人物もいなくはないにしても、彼ら彼女らの群像劇として楽しんでる人は少ないと思う。謎を残すように作るため、どうしたって描写量が少ないし、特に今回もゲンドウ・冬月側に誰もサブキャラがいなかったりする(あれは冬月以外誰もヴンダーに乗ってないの?というかネルフは2人しかいないの?)一人一人の背景やストーリーテリングが薄く、それでいて唐突ではあり、率直に難解だと思う。

 

だからどうなんだろう、安易な見方かもしれないけれども、やっぱ社会と折り合いをつけられなかったりする繊細で傷つきやすい人の象徴としてのシンジ君やアスカ、その他だったりがいて、彼ら彼女らの内面的成長・自己回復物語という構成は、なかなか40を超えて、成長性Eの俺が見てもなあという感は拭えなかった。作中の人物を見て、自分の生き方にちょっとでも影響を与えそうな何かだったり、気づきと言ったものが希薄というか。


決してスノッブ感で自分を演出したいわけじゃないんだけど、正直初見当時からも、確かに主人公シンジ君自身に対してはあんまり思い入れがなかったような気がする。

 

そもそもシンジ君に自己投影なりする場合って、自分が多少なりとも繊細であるという自己認識が必要だと思うが、私の場合、高校当時に自分が自分で思っていたほど、繊細な人間ではまったくなかった(繊細だったら鬼越トマホークや金属バット、マシンガンズを好きになったりしないだろう)ということも、その後の人生でわかった。ついでに言うとスター性もなかったし、才能もなかったが。うん、なにもなかった。でも人間そんなもんだろう。 

 

 

 

舞台挨拶を見て

さて、たまたま舞台挨拶回だったので、その後の舞台挨拶も見たけれども、その中で庵野総監督が明確に「エヴァはロボットアニメなんですよ」と言っていたのが印象深かった。

 

それを聞いて、庵野監督にとってエヴァって、まずロボットアニメという軸があって、それでいてそれまでの物理的・表面的なロボットバトルだけではなく、それを演出するためにキリ教周りの用語を散りばめたり、精神世界を印象的に描いたのがエヴァンゲリオンだったのかなと。もちろんガンダムでもニュータイプ同士の精神交感は描かれていたが、それを拡大して描いたのが95年の世紀末という時代性もあって、広範な支持を得たということなのかなーと思ったりなんかした。

 

舞台挨拶回で言うともうひとつ、前田監督の「リアリズムの前半」「妄想(想念世界)の後半」と分けて考えられていたような発言が印象深かった。製作チームの中でも、リアリズムというかロジカルで物理的な作品世界の側面と、精神面をフィーチャーした作品世界の側面とで捉えてたのかなーと思った。(で、私はそれで言うとリアリズムにフォーカスするタイプのファンだったのだ。ポストアポカリプス世界観はウォーキングデッドやけものフレンズ、ホライゾンゼロドーンなんかと同様に、前半の第三村パートは愉しかった)

 

※「ロジカル」という表現はもしかしたら違和感あるかもしれないけど、ここでは村上春樹大先生が仰られる「ロジカルな世界」と「その地下に広がる非ロジカルな世界」という対比の意味で書いた。

 

 

 

謎を愉しむということ

そういや劇場公開後の話題のひとつに「いまの観客は、謎を謎として楽しまなくなった」というのがあって、それが結構刺さった。その通りだと思ったから。

 

エンタメにとっての謎の良さって、視聴者が考察する余白だと思うんだけど、寂しい話ながら年々どうしても、そこを考える意義というか現実的利益のことを考えてしまう。

 

考えること自体には意味があるし、それでいうと、私が脳トレ的にピクロスやbokete回答を愉しんだりするのと、謎の考察って「脳の活動量」的には変わらないかもしれないけど、でも、答えのない、というか答えの明かされないことを考え続けるのって、ちょっとやっぱ悪い言い方すると、虚しくなってきてしまったというのはある。部下の評価やら資産形成やら家族付き合いとか健康とか、人それぞれだろうけど、世の中他に思う患うことが多すぎるのだ。

 

それって極論の話ではなく、だからと言って逆に、すべてとてもわかりやすいイージーで何一つ考察不要なエンタメを至上としたいわけではないんだけど、やっぱバランスだよなあと。世の中何だってそうそう0か1のビット化はできないのだ。

 

 

 

個人の感想ふたたび

というわけで、言うまでもなく、これはあくまでこういう人もいるよという個人の感想に過ぎず、目を広げると、各界の著名人がエヴァファンだったりするし、そこには彼ら彼女らが深く感銘を受けるだけの深さを持った、四半世紀を代表するビッグコンテンツであったことは間違いないし、今後なかなかこれを超えるだけの社会的インパクト(論壇誌やインテリ層が読む雑誌にまで波及するような)を生み出せる作品も出てこないだろう。

 

コンテンツとの個人的な距離感的に「これはとんでもない大傑作だ!」と手放しでほめたたえることは正直難しいし、それも寂しいんだけど、まあでも、なんかTVアニメ版や旧劇版と比べると断然きれいな大団円感あるし、確かに登場人物も一通りケリをつけたし、2時間半もあっという間で楽しかった。終盤の描写からなんとなく、色々派生してきたエヴァ(ゲームだったりマンガだったり諸々含めて)の終わりです!ということなのかなーと思った。だからさらば全てのエヴァンゲリオンなのかなと。各カットもディティールのかっこよさがあって愉しめた(伝わってくるんですよね、フェティシズム的にこれがかっこいいというこだわりなんだろうなーというのが。機械の駆動っぷりとか。)

 

こうしたちょっと醒めた感想って、もしかしたら製作陣や熱心なファンにとってみてはあんま面白くない感想かもしれない。でも、エヴァというコンテンツって、TVアニメの頃から、閉じるの一番難しい作品だったんじゃないのかなーと思う。世間の色んな人が思いを託してしまった作品だろうし。

 

だからこのような私のつまらない感想も製作陣は織り込み済だろうし、そういった意見・感想があることを承知で一生懸命閉じたことはすごいことだなーと思う。

 

少なくとも、シンゴジラやシン仮面ライダーは観たいと思った。

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さらば、全てのエヴァンゲリオン



 

 

と、やっぱtwitterの140字制限下での感想はあまりよくないですな。よくないというか、そのボリューム感に慣れるのはよくないと思う。一定量の思考をどういう形であれまとめるのには3000字程度は必要だと再認識できた。