人はパンだけで生きるのではない

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毒舌とポリコレとエンタメの未来

高校~大学ぐらいの時に異常に批判的というか毒づく時期があって、それはそれはもう、毒づけば毒づくほどよいと思っていた。バイト中に客にギャルっぽいのが来たら、裏で「さっきの量産型ギャルが~」とかなんとか、意味もなくひどいことを言っていた。

 

この辺はでも、当時結構な影響を受けていたフリッパーズギターのお二人からしてそうだった。ナンシー関さんもそう。TVbrosなんかもそうだ。oasisもひどかった。村上さんちの春樹大先生だって、作中でところどころ毒づいていた。影響で言うと、通っていた予備校の先生(代ゼミ富田一彦先生)なんかもなかなかの毒舌っぷりで、これら総じて、そうした世間の色々に対する批評性を持つことはよいことだと思っていた。

 

単純な口の悪さ、毒舌とは違う(つもりだった)。
自分から毒舌キャラぶって、あまつさえそれを免罪符とするのは当時から痛いと思っていたし、そこにはある程度前提となる見識を踏まえての、芸となる毒づきがポイントだった。

 

おそらくそれは、それまでの標準的教育を受けることで若者が身に着けることを期待されているであろう、スタンダードな道徳的価値観に対する、反抗期、逸脱のようなものだったのかもしれないし、いわゆるクラスの三軍性というか、王道ルートを離れはじめたことに対する自己弁護の代替だったのかもしれない。

 

それのストレートな反発の露出となると、モラル的あるいは法的に問題のある行為だったりするんだろうけど、不思議とそちらには魅力を感じなかった。ツッパリ文化が私の思春期には前時代的になっていたためかもしれないし、仮に同時代だったとしても、ゆくゆくピチカートファイヴを聴いたりする感性には、不良文化は全く響かなかった。(ろくでなしブルースはギャグとして好きだった)

 

 

 

しかし、そのうちそうした批判行為が、相対的に自分をよく見せるためでは?という疑念が沸き、以降そんなにそんなに積極的に毒づくようなことはしなくなっていった。大学2年ぐらいの話だ。

 

アスキー船田戦闘機さんがオルトアールの運用ブログだったかで、「批判をすると、そのことで相対的にその人より上になる気がして気持ちいいけど、それはただの錯覚」的なことを仰っていて、大変腑に落ちたのだった。おそらく、ツイッターやヤフコメ、はてブなどで目にする断罪系コメントの大半はこの快感なんだろうと思う。

 

だからネットリンチってなかなか解決難しいんだろうなって思う。投稿者ひとりひとりにとってのストレス解消の面があるから。名誉棄損だったり判決事例がいくら出たとしても、なかなかその辺、一般常識としての表現レベルが均されるまでは時間がかかりそうだ。

 

ともあれそれで、急に以前ほどの批判熱を持たなくなってしまった。もしかしたら一生分の毒を吐きつくしただけかもしれないが。枯渇した油田のように。

 

 

 

さて、そこにきて昨今のコンプラ重視、ポリコレ、傷つけない笑いである。
もちろんコンプラ大事だし、ぺこぱやミルクボーイ好きなんだけど、批判行為自体がNGで、ただただ黙従、相対性を以て肯定し合う風潮も、あんまり行き過ぎるとつまらないなあというか。世の中「芸になる毒」というのがあって、話術でも文体でも生き様でも。そういうのが消えていくのは、なんか退屈な気がしなくもない。

 

この辺の感覚って愚推するに、まずは戦後一貫して、より過激により過激にと進んできたのだと思う。戦前には教育勅語的な清貧な道徳観が(それなりに)あって、戦後の庶民文化はそれに対する反発がグラデーション的に徐々に進んでいった。そのピークがバブル期であり、ビートたけしANN(1981~90)とかだったりするのかな。ビートたけしの毒ガス系の著書読むと表現スゴいもんな。(そういえば小学校高学年になって、初めて買ったエッセイ本がビートたけしの世紀末毒談だった。三つ子の魂的なやつなのか。)

 

そうして一度ピークを迎えたあとは、言葉狩り表現規制、ハラスメント概念とかが出てきて、ただただ過激さを競うような風潮は、徐々に影を潜めて行った

 

でもそうしたチルアウトな方向性は、やがてまた10年後だったりぐらいには反転していくのかなあと思ったりする。なんだかんだで2010年代に有吉さんやマツコさんがブレイクしたのって毒舌的批評性だからだと思うし。やはり毒舌的批評性は求められてはいるのか。


それに、

「強きをけなし弱きを笑う。
 勝者のアラさがしで庶民の嫉妬心をやわらげ、敗者の弱点をついて大衆にささやかな優越感を与える。
 これが日本人の快感原則にいちばん合うんだな。」
「卑しい国民だ。」
「だから独裁者も革命家も出現しないんだよ。いい国じゃないか まったく」

 

91年のパトレイバーでこのように看破されてるように「強きをけなし弱きを笑う」国民性である(これは本当に慧眼で、ワイドショーやネットニュースやコメントで散々目にする構図で、国民性というのは早々変わらないものなのかもしれない)。

 

そこに急速にポリコレだー、傷つけない笑いだーと言いつつ、やはり常にそうした毒舌的批評性は潜在的に求められているのかもしれない。そういう意味で、ネクスト有吉/マツコ/坂上忍のポジションとして、若手芸人で比類なき観察眼のある鬼越トマホークが、もう二段ぐらいブレイクするかは結構注目している。

 

 

 

もちろん今でもYoutubeを探せば、編集や検閲が無い分、ただただ過激さを求めた言説はあるにはあるのだけど、先鋭化/カルト化した極一部の層のみを対象としているだけで「芸になる毒」には至ってないというか、そうなると受容層が広がっていく感じがない。

 

いつも逆張りで極論露悪主義を採ってる小林よしのりさんやホリエモンさんもそうで、刺激的で面白いかというとそうでもない。多分身を削ってないからだろうな。負け顔しろとまで言わないけど、多少なりとも身を削ってくれないと面白くならないのかもしれない。

 

でも昨今の、「私は傷つけられました」と表明するあまねく人々に配慮して、誰も傷つくことがないようその保護層を広げていくのって、ゆくゆく行き詰まりそうじゃないか。結構なディストピアだよな。そうした規制の下で生まれるエンタメってどうなんだろう、だんだん退屈なものが増えていくのかなーなんて思ったりする。ヒューマンドラマは好きだが、それだけでは飽きるというか。

 

 

 

そもそもそんな、誰も傷けられない表現の世界なんて実現可能なのか。件のかわいそうランキングの話のように、KKO(きもくて金のないおっさん)はいくらでも傷つけてOKみたいな、線引きの恣意性は解決できるのか。「この表現はNG」というブラックリストが無限に追加され続ける世の中ってどうなんだろう。それよりはブラックリストを最小限にする方向性の方が自由度があってよい。

 

つまり、これまで散々っぱら「傷つけられた!撤回しろ!」と被害者ムーブしてた人が、まあそれも表現の自由だねと、全員が寛容になる方が早くて現実的に思う。程度問題だが。要は騒音0dbにはできないんだから、80dbはなんとかしたいけど、40dbぐらいは勘弁してよと。

 

いつかは今の流れから逆コース的反転が起きて「いや、もうアナタは傷ついたかもしれないけど、皆がそんなに配慮してたらキリないじゃん。アナタもどこかで誰かを意図せず傷つけてるでしょう?てことは、私は人を傷つけるが人が私を傷つけるのは許さないってことになるでしょう?だから常に被害者ムーブしてないで寛容になってよ」っていう風になったりするのだろうか。

 

カルト的で極論な芸のない批評性と、チルアウトなポリコレ主義の二極化するのが一番つまらんなー、なんて思う。